めぐみは、母の病気の話をきっかけに、今までの自分自身の心構えを内省する。人助けが信条で、がんばればぜったいどうにかなると信じてた。しかし、自分のチカラではどうすることもできない、助けられない人だっているだろう、という厳しい現実に、自身の母の病状をふまえつつ、不安になり、悩み、おのれの無力感にさいなまれる。

人を助けるのは難しい。人を助けるといっても、では、いったい、なにがその人にとって本当の助けになり救いになるのだろうかと考えたとき、それは、本当のそれはその人の内面にあり、したがって、ぜったいにその人にしか分からないのだ。

めぐみはなんとしてでも母の病気をなおしたい、そのためにそのための努力はおしまないつもりだと。けれども、かんじんの母のほうはというと、なおらないであろう病気に心とらわれることなく、それでも、いま自分が生きているという事実を大切にして、娘の元気な笑顔が見られる幸せをかみしめ、そしていつかそのときが来たらそれを運命としてありのままに受け入れ、最期は笑顔で、と、そんな様子だった。そんな母の本心とのすれちがいに、めぐみはすこし空虚感をおぼえるのだが、めぐみは娘として母の気持ちも理解できているのだろう。おそらく母は娘が心配してくれるのはうれしいのだけれども、それはそれとして、娘には母のことよりも自分の人生を考え幸せな人生を歩んでって欲しいと願っている、そして、それが母として娘をおもう親心で、母の幸せなのだと。

自分が良いとおもってしたことでも、相手にはそれほどでもなかった。そういうことは起こりうると知ってはいたものの、それがごく身近なところで起きてしまい、そのせいで、ことさら自分では助けたつもりになっていても、もしかしたら、じつはその人にはおせっかいだったのかも、人助けがたんに自己満足で終わっていたのかもしれない、と、そんなふうに深刻に考えはじめると、なんだか落ちつかなくて、気持ちがたゆたってしまい、これからどうしていいのか、わからない、と、そんな感じのめぐみだった。

けっきょく、めぐみは神様ブルーの助言もあって、答えをみつけたようだった。その答えとは、いままでどおりでいい、ということで。いままでどおり自分が良いと信じた道をまっすぐ進む。それでいいじゃないかと。もちろん、ときには、まちがえることもあるだろう、失敗することもあるだろう、でも、それはそれとして反省して、そこでめげずに前にすすんでいく。なにが本当に正しいのかは正直わからないけれど、しかし、わからないからといって、そこでなげいたりあきらめるのではなくて、そうではなくて、わからないからこそ少しでもわかるようになりたい、そのために考えて行動する、その心構えが大事なんだと、愛乃めぐみさん。

めぐみ(キュアラブリー)がオレスキーにいっしょに誕生日会しましょうと提案したのも、そうすることが最善だと判断したからでしょうし。いっけん、おかしな提案のようだけれど、しかし、みんなが幸せになる、笑顔になるには、戦うよりも合同誕生会をもよおすほうが良いとの判断だったのでしょう。ところがオレスキーには拒否され、今回はうまくいかなかった。けれども、もしかしたら、めぐみの提案が他人を信じることができないかたくななオレスキーの心に小さな風穴を開けたかもしれません。本当にそうかは分かりませんが、めぐみからの意表をつく提案にオレスキーの心が少しゆれていたのは確かなようだった。

行動に対する結果が、すぐにでるときもある、しばらくしてからでることも、あるいは、まったくでないことだって。そして、うまくいくことも、いまいちなときも、ある。けれども立ち止まってはいられない。いや、ときには立ち止まって苦悩してもいい。けれども苦悩したまま動けなくなってはダメなんだろう。困難な状況から抜け出し自分を成長させるためには、ある程度まで考えたら、さいごは覚悟を決めて、自分を信じて、勇気の一歩を踏み出さないといけないようです。