現実は厳しく、生きることは苦しい。おもいどおりにいかなくて、心が折れてしまうことがある。そうして現実に背を向け、しかし死ぬ勇気もなく、孤独を選び、ひたすら空想に浸って細々と生きようとするのだろうか。

一之瀬さんは、かつて文芸部に所属していて、小説家をめざしていた。しかし、作品は先輩に評価されず、心が折れてしまった。爾来、一之瀬さんは文芸部をやめ、筆を折った。ファンタジー小説の内容はフィクションであり空想の産物ではあるけれど、そのファンタジー小説を書くという行為それ自体は現実そのものである。一之瀬さんは人魚が好きで、人魚が登場するファンタジー小説を書いていたのだけれど、いまは自身で考えた人魚のお話を綴ることはせず、アンデルセンが書いた人魚姫を愛読するなどして空想の世界に浸って満足していた、いや、満足してるふりをしていたのかもしれない。本当は書きたい、でも書けない、書いたらまた酷評されるに決まってる、それは怖い。そんなふうに失敗を恐れて自信をなくしていたのかもしれない。

ところが、ある日、夏海と、そして人魚のローラと出会い、一之瀬さんはうながされる、自信をもてと。ひとは自信をもてと簡単に言われてもすぐには自信なんてもてない。気持ちひとつでなんでもうまくいくのであれば苦労なんてしない。それはそうなのだろうけれど、とにかく今のままではダメだと一之瀬さんは思ったのだろうか。本当は自信なんてないけれど、一歩踏み出す勇気をもちたい、それができるのはほかでもない自分だけなのだからと。たぶんそんなかんじだったのではないだろうか。そして今回は、うまくいった。たまたまうまくいっただけなのかもしれない。けれども一之瀬さんは現実(リアル)も悪くないなと思うようになったようだ。失敗を恐れて逃げてばかりいてはダメなのだと思うようになったのかもしれませんね。執筆活動も再開できそうですね。

人間は現実よりも、その現実にからまる空想のために悩まされているものだ。空想は限りなくひろがるけれども、しかし、現実は案外たやすく処理できる小さい問題に過ぎないのだ。この世の中は、決して美しいところではないけれども、しかし、そんな無限に醜悪なところではない。おそろしいのは、空想の世界だ。