300年前。
神様に恋をした巫女さんがいました。
それが今のクイーンミラージュ様です。

なんとなくだけど幻影帝国の連中はみんな幽霊なのかもと。
この世にうらみをいだいたまま死んだ人たちが成仏できずにいて、つまり怨霊というわけです、クイーンミラージュ様にしても3幹部にしてもハンターさんにしても。

怨霊が成仏できずに跋扈してるなんて、悲しいです。
なので幻影帝国のみなさんは、またアクシア箱に封印するのではなく、わだかまりをとりのぞいてあげて、しかるのち、成仏させてあげるのが道理でしょう。

クイーンミラージュ様にしても神様ブルーをうらんではいるものの、でも決して痛めつけたり、あるいは拉致して絶対服従させたいとか、そういうのが本心ではないでしょう。
そういうのは、いっときのなぐさめにはなっても、すぐに飽きて、その後もしかしたら自己嫌悪におちいるかもしれません。
なぜならクイーンミラージュ様が神様ブルーに本当に求めてるものは、そういうことではないはずだからです。
クイーンミラージュ様の本当の望みは神様ブルーを従わせることではなくて、そうではなくて、心をかよわせ、なごみたい、と。そういうことなのだろうから。
クイーンミラージュ様はもともと神様ブルーのことが大好きなわけですから、それにもうずいぶん時間がたってしまいましたからね、神様ブルーにあやまってもらい、それから、やさしく抱きしめてもらえれば、もうそれだけで300年の縛りから解放されミラージュ様は成仏できそうなものです。
が、そうはイカのナントヤラで。ミラージュ様の心の不安定さにつけこむのが、ほかでもない、ディープミラーさんなのでした。

うーむ、ラスボスはやはりディープミラーさんだったのか?!

なにかこう、成仏できない怨霊たちの迷いを利用して、なにやらたくらんでるのがディープミラーさんのようです。
世界を滅ぼし、世界が幻影帝国によって支配され、世界が真に無明の世界になったとき、さて、それからどうするのか?
いちど世界を壊し、そこから世界を再構築しようとしているのか?
それとも、たんにこの世界をオモチャにしたいだけなのか?
どうなんだろうか?ディープミラーさんの目的が、わからん。

なくなった人に誠意をもって供養するのは大切なことなのでしょうね。
その人がどういう気持ちで生きて、そして死んでいったのかは、ほんとうのところはその人だけにしか分かりませんから。
残った人たちが勝手に、自分たちに都合よく、ああだ、こうだ、と決めつけて、なくなった人たちを評価するのはまちがいなような気がする。
だれかの死に対しては、その死に対しては、すなおに、わからない、と認めるのが誠意ある対応のような気がするんだ。
そして、わからないから、わからないままでいいんだ、じゃなくて、そうではなくて、わからないけれど、なにかいろいろと思うところがあっただろうと、おもんばかってあげるべきだろう。
いかなる死に対しても尊厳を認めるのが、人としてのやさしさのようにも思える。

ミラージュ様も再封印されなければ、とうぜん死がおとずれることでしょう。
人間は300年も生きられないはずですし、そもそも肉体はとうの昔に朽ちてることでしょうし、怪異でもなければ精神だけでは生きられず、というか精神と肉体がそろってなければもはや人間とはいえないはず。

死、それは敗北ではない。死は人生の完成だと。
おそらく、いずれおとずれるであろうミラージュ様の死も、けっして敗北ではなくて、人生の完成なのだろう。
こんご神様ブルーがどう対応していくのかは分かりませんが、そしてミラージュ様がそれをどう受けとめていくのかも本当のところは分からないのでしょう。しかし、さいごミラージュ様が神様ブルーを許して、無事に成仏できるのであれば、もうそれでじゅうぶんなのでしょうね。
それ以上のことは、わからないし、わかる必要もないから。
命という有限、死という無限、その接点であるその瞬間、なにかしらの心の救いがあったのならば、人は幸せなのかもしれない。もちろん、それを経験したことはないので、本当にそうなのかは分かりませんが、そうありたいなと。

幸せとは、なにか?
それは絶対的な概念ではなく、人それぞれ、なんだと思う。
他者から見て幸せそうでなくとも、当人が幸せだと感じていれば、それはその人にとってはたしかに幸せなのだろうし。
では、人はどういうときに幸せを感じるものなのだろうか?
それは、心が救われたときなのかと。
人の心の救われ方は、人それぞれ。だから相対的ということに。
お金持ちになるとか、社会的地位を得るとか、そういうことで心が救われる人もいるだろうし、そんなことでは救われない人もいるかもしれないし。
そして、なかなかおもいどおりにいかないのが世の中なので、なかなか心が救われない場合も多いことでしょう。
生きてるって、基本的に、辛くて苦しい。
だから、せめて人生さいごぐらいは、なにか、ささやかな救いが欲しいものです。
とはいっても、そのさいごに、その人に、なにが救いになるのかなんて、周囲の人間にはなかなか分からないでしょう。
本当に分かりません。
不治の病で本当に苦しんでたら、当人は、家族の希望とは逆に、早くラクになりたいと願うかもしれませんし。
わからないものです。
ただ、だからといって、わからないからといって、あきらめるのではなくて、さいごまで相手の気持ちになって行動してあげるべきなのかもしれません。かりにその行動が当人の希望にそわないものになってしまっても、その気持ちだけは伝わるとは思うので。
まあ、死というものは、なにも病気だけでなく、交通事故や自然災害、あるいは事件にまきこまれたり、などなど、いろんな場面でであうものなのでしょうから。相手を思うヒマもない場合もあるのかと。
けれども、有限から無限へと解放されるその瞬間に、なにか幸せな気持ちもいっしょに持っていけたらな、とは思う。

ああ、プリキュアの感想を書いてたつもりなのに、なにか雑駁な作文になってしまったよ。
書きなおすのメンドクサイから。まあ、いっか〜