ひとは、ひとりでは自己中にすらなれないという。ひとりぼっちでは自己中な発言も行動もない。ひとりならその人がしたいようにするのがあたりまえで、他者から非難されることも、そして、愛されることもない。

また、ひとりぼっちでは愛も生まれないように思える。自分で自分を愛せばいいじゃないかと反論されそうだけど。でも、なぜかずっとひとりぼっちでいると、心がめいってきて、そんな自分を愛せないような気もするんだ。その理由はよくわからないのだけれども。

けっきょく、ひとりでは、ひとりぼっちでは自己中も愛もないような気がするんだ。だれかとのつながりのなかで、自己中も愛も生まれてくる。そんなことをキュアハートさんが、おっしゃってたような気がする。

さらにいえば、自己中と愛は双対なのかもと。自己中があるから愛が生まれる、愛があるからこそ自己中は生まれる、と。そんな関係かと。

自己中とは人間の自然な感情のひとつで、それがなければ人は自分が自分であることを認識できないのではないだろうか。どんなささいなことでも自分はこうしたいと自己中に願わなければ何ひとつ意識的に行動できないような気がする。つまり自己中とは自意識そのもので、自意識のなかにこそ好き嫌いの区別が生まれ、そして好きなものは愛するし嫌いなものや関心のないものは愛さないということなのかと。

愛もまた人間の自然な感情のひとつで、なにかを、だれかを、好きになって愛してしまうのは、さてこれからこれを愛すことにしよう、とか、あいつを好きになってやろう、とか、そんなこと考えないで無意識に、いつのまにか好きになって愛してしまう、というものではないだろうか。そして、愛にはランクがあって、あの人は好きだけど、この人はもっと好き、みたいな感じに。好きは好きなんだけど、対象の違いによってその好きの度合いが違うことはむしろ普通のことだろう。愛が平等でないという点で、またその不平等さが人によってさまざまであるという点において、人は、人それぞれ自己中である、と判断できそう。

キュアハートさんが自己中を否定しないどころか、みずからも自己中だと認めているのは、自己中と愛の双対性の本質を見ぬいているからで、だからこそ愛におぼれ自己中になったトランプ王国の王様すらも許せたのだろう。おそらくキュアハートさんも自身の愛のなかに自己中をみいだし、その自己中な気持ちと対峙し、悩み苦しみ、こたえをだし、強くなってきたのだろう。強くなれて世界を違う視点からながめることができるようになって、いままで好きではなかったものや無関心だったものにすら愛を感じるようになって、またその愛のなかに存在する自己中をあらたな愛へと昇華させるというその繰り返しで今日まできたんじゃなかろうか。

なんだか自分でも何を小難しく、さかしらに書いてるんだろうとは思うのだけれども。ようするに自己中は必要なんだけど、いきすぎた自己中は滅びを招くから1万年くらい眠ってろ、ってことです。人間はついつい自己中に傾いてしまう。それは愛ゆえで。自己愛もあるでしょうし、家族愛である場合もあるでしょう。愛に罪はなく、したがって自己中にも罪はない。でも、いきすぎた自己中は困るから。だったら眠っててくれよ、というわけで。その役目をプリキュアがひきうけますよ、ってのがドキドキプリキュアだったのかしらと。

最終回なのに、なんだかツマンネー感想書いちゃったなと、後悔してるけど、でも書きなおすのもメンドクサイから、このままにしとく。ほんとは、ありすの制服姿カワイイヨとか、プロトジコチューはエターナルゴールデンクラウンで封印しなくていいのかよみたいなツッコミとか、そういう感想書きたかったなとは思ってる。

とりあえず、この1年楽しかったです。ハートキャッチに勝るとも劣らないです。フレッシュには及びませんでした。なんかね、伝えたいテーマみたいなのは伝わってきたのだけれども、いかんせん設定とか、伏線の消化とか、そういうのが雑な印象でした。そういうご都合主義的な展開を嫌悪する人もいたようです。わたしもはじめはそうでしたが、途中から、こまけぇこたぁいいんだよ、と思って視聴するようになって、むしろツッコミを楽しみながらの視聴にきりかえたら、自然に楽しめるようになりました。

さいごにひとことだけ言わせてもらえば、もっとキュアロゼッタが活躍してほしかった!