わたしはほとんどなにも知らず、わからず、生きているし、それでも生きていける。それは、世の中にはテンプレというか公式みたいなモノがあるから。

世の中、わからないことは、わかったふりをしていれば、なんとなくそれなりにうまくいくようにおもえる。だいいち、そのほうがラクだし。いちいち考えないで、それが当たり前だとわりきって、数学の公式のように無批判にうけいれればいい。円の面積は、半径×半径×円周率、なんだけど、なんでそうなるのかなんて理解できてなくても、それはそういうものなのだととにかく信じて、とにかく半径に数字を当てはめて計算さえすれば円の面積はもとめられるように。ひとは、なんのために生きているのか生きていくのかなんて考えないで、とにかく仕事して給料もらってそこそこ楽しい生活を送っていれば問題ないように。ひとは世の中を生きていくとき、世の中とはそんなもんなんなんだと、なんとなく納得して、しぜんと掘り下げた思考を放棄してるようにおもえる。そういう心構えは、ある意味、不誠実な態度なのかもしれないけれど。人々が日々そうしてそうすることで世の中がそれなりに回っているのであれば、それほど悪いこととも思えない。

よく小さな子供が母親に、これはどうして、あれはどういうこと、なんで、なんで、と、しつこく質問したりしてるけど。そのうち、だんだん質問しなくなるようだ。それは、わからなかったことがわかるようになったからではなくて。そうではなくて、質問してもまじめにこたえてくれない、あるいは納得のいくこたえがえられない、からだろう。子供は身の回りの物事や現象をありのままに見つめて、それを知りたい、知ろうとするのだけれど、いかんせん多くの大人が物事や現象の本質に興味がないのだから、しかたがない。子供は大人に質問してもムダだと知り、だんだんあきらめてしまう。

子供は、大人に質問攻めしてもムダなら、ようし自分自身で、と意気込むのかもしれないけれど。それが長続きする子供は少ないような気もするんだ。そんなに集中力が持続する子供なら、たいしたものだ。たいていの子供は飽きっぽくて、すぐにいやになって、まあいっか、となって、さっきまで何に疑問をいだいていたのかさえも忘れて、いまはもう別の遊びに夢中になっていそうなものだから。けだし森羅万象の本質を探求するとは本来それだけ精神力を必要とするものなのだから。しかたがないといえば、しかたがない。子供を責められない。子供は、いや大人もそうだけど、基本的に怠け者なんです。

おとなになったからといって、なんでもわかるようになるわけではない。でも多くの大人がいちいち、あれはなんでだろう、これはなんでだろう、などと悩まないのは、無意識のうちにごまかすことをおぼえてしまっているからだ。わからなくてもわかったようなふりをするようになってしまっているということ。これは子供時代から少しずつ身につけてきてしまったことで。子供は大人に物事や現象の本質を問うてもムダだと知るのだけれど。それでも大人の社会はさほど混乱していないでそれなりにそこそこうまく回っているということも知っている。ならばそれでいいじゃないかと。本質的なことなど知らなくてもいいじゃないかと。しらずしらずのうちに、自分をだましだまし生きてくことをおぼえる。そうやって常識やら社会規範やらテンプレを身につけていくんだ。

それはそれで悪いことではないのかもしれないけれど。それで社会がうまく回っているうちはまったく問題ないのだろうけれど。時代が変わって、パラダイムシフトが起きて、いままで無意識、無批判に受け入れていた常識やら社会規範やらテンプレが役立たなくなったとき。いったい、ひとはなにをよりどころに生きていけばよいのだろうか。方法は、とりあえず3つありそう。

ひとつめは、ひたすら混迷に身を委ねるということでしょう。そうやって世の中に新しい常識やら社会規範やらテンプレができあがるのを待つのです。世間でなにかコレがよさそうだと話題になったらとりあえずそれをやってみる。うまくいくかいかないかは、わからないけど。だけどみんながやってることをやるのはなんとなく安心だし。失敗しても自分だけでなく多くの人が失敗するのだろうから、まあしかたないとあきらめもつくのかもしれない。

ふたつめは、確立されている思想をよりどころにするということ。たとえば宗教です。宗教といっても、新興宗教ではなくて、むかしからある古典宗教のほうです。古典宗教は長い時間を経過してもすたれなかったという点で価値があるとおもいます。一般的に宗教で示されている内容――たとえば神様の存在とか――などには明確な根拠がないのだけれど、それでも古典宗教の場合、長い時間、長い歴史の中で、世の中の仕組みが変化しても、人々にあるていど支持され続けてきたということは、そこに何か普遍的な人間の人生や社会の仕組みの本質に関わる内容が含まれていたからなのだと判断できます。宗教の教えをヒントに今の混迷の時代をどう生きてくかを自分で考えていくのです。

そして最後は、一から自分で、あたらしく自分で自分の自分だけのよりどころとなるものを作っていく、見つけていくということです。これはかなりシンドイ方法だとおもいます。なにしろ何もないところに自分だけのチカラで生み出していかなければならないのですから。それにはまず、自分をごまかさず、勇気を持って、まず自分がいま混迷の中にいることを認めることが必要となります。そしてなにがほんとうかを知ろうとする気概をもたなくてはなりません。先入観やら偏見やらをすてて、そして、正しい事実認識からスタートしなければなりません。現状がどうなっているのか、ありのままの事実から目をそらさないで、心をカラッポにして、そう、子供の頃のような純粋な目で、ありのままの世界をみつめようとする。そして事実をみきわめたあとは、ひたすら論理で結論を導きだしていくのです。そしてその導き出された結果がいかなるものであろうとも、その結果を認めようとする柔軟な心をもたなくてはなりません。シンドイとおもいます。