プリキュアでカウンセリングを呼びかけるべき(アゴラ)

もし著者の人が、現実の少女に興味があるのだからアニメやマンガに出てくる空想上の少女にも興味があるはずだと考えて

>>「幼児に性的魅力を感じる人」は、ほぼプリキュアに釣られてしまうでしょう。

と予想したのだとしたら、それはどうなのでしょうか。
たとえば、どちらも小説なのだからといって、ライトノベルを読む人はほぼ純文学を読むでしょうか。ライトノベルと純文学は趣向が違うものです。
同じ陸上走行車両だからといって、レーシングカーに魅力を感じる人がほぼ戦車に釣られるでしょうか。レーシングカーのさっそうと走る姿に魅せられた人のほとんどが同時に戦車のドッシリ感にも熱い視線を向けてくれるでしょうか。
そう考えると、同じ少女でも現実の少女と空想上の少女とではその魅力は似て非なるものといえるのではないでしょうか。


著者の人は、幼児性的犯罪者は少女に興味がある人たちなのだから同様に少女に興味のある人たちは幼児性的犯罪者になる可能性が高い、と考えているようです。
だからこそ

>>「必要条件(比喩)」というのはプリキュアが好きな人には抵抗があるでしょうが、「児童ポルノ法改正案」に反対するならば認めた方が良いと思います。更に、私が主張するように、プリキュアで「大きいお友達はカウンセリングを受けてね!」って呼びかけるべきでしょう。

と述べているのではないでしょうか。
これは「同じカテゴリー内にいる人は、同じような性質を持ち、同じような行動をとるはずだ!」という思考ですかね。
こういう思考が、たとえば「あの人は部落出身だから…」とか「あの人は大企業につとめているから優秀でも、この人は中小企業だからそうでもない」とか、あるいは「親が犯罪者だったらその子供も悪い子にきまってる」みたいな発想につながるような気がします。
これらは偏見と差別です。
どこ出身であろうと、どんな職業だろうが、家族に犯罪者がいようがいまいが、その人はその人なわけですから、今現在のその人の有り様でのみその人は判断されるべきなのです。
プリキュアだってそうです。コスプレ美少女が登場するからとか、大人の愛好家である大きなお友達が多数存在しているからとか、そういった断片的で副次的な情報と先入観からだけで、プリキュアとはこういうものだろうと判断してしまうのは間違いなのです。
本質を見極めるためには、まず正しい事実認識からです。