ひとの不幸は蜜の味。メシウマ。そんな言葉がありますが。しかし、どうして他人の不幸がわかるのでしょうか。幸福か不幸かなんて、その人の個人的な感情ですから。案外こちらが勝手に不幸なんだろうなと推測しているだけで、その人は不幸を感じていない場合も多いのかもしれません。たしかに、客観的に、不自由してるな、不便だろうな、不都合そうだな、と判断できる場合もあるでしょうけれども。それでも、たとえば、お金に不自由していても幸福な人もいるのではないでしょうか。パンが1つしか買えなくても、ちぎって2人でわけあって仲良く食べる幸せもあるような気もします。ぎゃくに、お金持ちで幸福そうな人が、じつは不幸だったりする場合もあるのではないでしょうか。警察ザタになるほどの深刻な事件が家庭内でおきて、でも近所の人たちは「裕福でなんの問題もない幸せそうな家族だったのに…」と、おどろきをかくせない、といったような事件はたまにあるものです。

他人の心の中はのぞけないのだから、他人が幸せか不幸かなんて、正確にはわからないものなのです。それなのに、さもわかったように、あの人は幸せだ、この人は不幸だ、といったふうに断定するのは、おもいあがりだし、自己満足なのだとおもいます。自分が幸せではないと感じているのに、他人から幸せですねとうらやましがられたら迷惑です。自分が不幸だと感じていないのに、他人からあわれにおもわれたら、えっ?なんで?と思ってしまいます。

そんなわけですから、他人の不幸で今日も飯がうまい、なんていうのは滑稽なことなのかもしれません。勝手に他人を不幸だと決めつけて喜んでいるだけのことなのですから。でも、もし、その不幸そうにみえる人がじつは幸福で、その不幸そうにみえる人のことを誰かがメシウマだとおもったとしたら。この場合どちらも幸せなのだから、それはそれでいいのかなと。