教育勅語、修身教育、勤労奉仕、などなど。そこには日本人の美徳があった。ところが第2次世界大戦後、個人の権利ばかりが主張されてきた公立の学校教育。そして戦後の公教育は堕落した。日本国民は堕落した。坂口安吾は「生きよ堕ちよ」と。だがしかし、新たな武士道は、いまだ生まれてこないようだ。なぜだ?とことん堕落できるほど人間は強くはないはずなのだが。まだまだ堕ちかたが甘いということだろうか、現代日本は。

やりたいことだけ、やる。やりたくないことは、やらない。好きなことは、うけいれる。キライなことは、ことわる。これは人間の本性であり欲望である。なので人間の本性や欲望を否定する規則や規律は非人間的であるといえる。だがいっぽうで、人々がそれぞれ自分勝手に好き放題やっていては、最低限度の自由も権利も保証されず、きゅうくつな社会生活しか成立しないというのも事実であろう。だからこそ規則や規律が必要で、その必要性を訴える青木さんは学校生活を守るという観点において実に人間的なのだ。人間性を否定する規則や規律が非人間的であり、かつ人間的であるというコトは矛盾しているようだが、理屈でわりきれないのが人間社会というモノなのだから、しかたない。

堕落し足りないのなら、もっともっと堕落して、堕落しつくして、そしてそこに新たな「堕落に対する防壁となりうる何か」を見出せば良いのかもしれないが。そんな悠長なことをしていられるほど今の日本国には余裕がないのかもしれません。とはいえ絶望するほどでもないようにもおもえます。生徒たちは怠惰な生活を望んではいるが、いっぽうで自分たちの生活を規律する何かも少しだけ望んでいるようなのです。人間とは、完全なる自由が与えられると、かえって不安になり、すこしだけ規則にしばられて生活したいと願うもののようです。青木さんの最後の演説はよかった。青木さんは生徒会長に選出された。あまり堅苦しくなく、そのメリットを具体的に説き、共感を得るように心がけ、生徒諸君を導こうとしていたから。その場の雰囲気にのまれて青木さんに一票を投じてしまった生徒さんもいらっしゃるとはおもいますが、それでもそれほど後悔はしないのではないでしょうか。むりやりやらされる掃除はイヤだけど、ふと目についた空き缶やら紙クズをひろって片付けるくらいなら、それならイヤでもないかな、ぐらいには思ってくれるのではないだろうか。

いまの時代に、かつての修身教育をそのままあてはめようとするのは、たしかにムリがあるとはおもいます。いまの時代には、いまの時代にふさわしい、それがあるはずです。青木さんはそれを求めているようにおもえます。なかなか、たいした女子中学生です。つねに自問自答し自戒し、考えぬいたすえの立候補辞退。立派です。自分でなくても、この学校を良くしてくれる人が生徒会長になってくれればと。しかし、そんな人はいなかった。なので立候補を決意した青木さん。決して自信過剰ではありません。むしろいつも自分の正義に不安をいだいている。それで、はじめはルンタローくんことウルフルンさんに明確に反論できなかった青木さん。でも、さいごは答えを出せた。ほかのプリキュアたちに勇気づけられて、それから少しモヤモヤした自分の心の中を手さぐりして、つかんだ。わたしの進むべき道は、これだと。気持ちを伝えていく努力だと。

なにが正解なのかは、わかりません。正解はひとつではないのかもしれません。また、ときには間違った方向に導いてしまうことも、あるかもしれません。それでも自分が正しいとおもったことを伝えていきたいのだと。青木れいかは、そう考えたのでしょう。相手に伝えるためにはどうすればいいのかを考えると、説得力を持たせるためにはどうしても自分の主張の根拠を見出したくなります。どうして、あいさつするのか。どうして、掃除するのか。どうして、花を育てるのか。それらをひとつひとつ自省した青木さん。それがあの最後の演説につながったのでした。