「これこれはこうである」という主張に対して「いや、そうではない」と返すのが反論です。主張にはその根拠が示されなければなりません。根拠のない主張は妄想です、あるいはせいぜい「予想」とよばれます。根拠とは、事実と論理から導きだされる理論のことです。ある理論を否定するには、事実認識をくつがえすか、論理のまちがいを指摘できればよいのです。事実を観察して帰納的に導きだした理論も、逆に事実を予想し事実に先行して構築された理論も、そのどちらの形式の理論もその正当性は未検証の事実を順次あてはめてみて、実際ウマクあてはまることを確認することで実証されます。もし、あてはまらない事実が認められた場合、その理論の正当性は失われることになります。

「犯人はプリキュア好き」、それはマスコミが警察などを取材した結果、おそらく事実だったのでしょう。その報道に対して世間がどう思おうがそれは自由です。春に桜の花が咲いてるのを見て「ああ、キレイだな」と思おうが「べつに、たいしたことないな」と思おうが、あるいは無関心であろうが、どう感じとろうが自由であるように。「犯人はプリキュア好き」という報道から「ああ、やっぱり、プリキュアのような番組を好む人は女児に対して性欲のある人なんだな」と感じる人がいても、それについて批判などできないのです。犯人がプリキュア好きだったという事実から、女児に対する性犯罪とプリキュアとのなんらかの関係性を妄想するのは勝手ですが、でも、なぜその妄想が真実かどうかを検証しようとする努力をしないのでしょうか。もし検証に必要なデータが十分に集まらないというのであれば、軽率な発言は慎むのが良識ある態度だとおもいます。無思慮で稚拙な発言をして、それを簡単に反論されて恥かいて社会的信用をなくすだけならまだいいのかもしれませんが、根拠のない悪口は、誹謗中傷は、ときとして名誉毀損として犯罪として取り締まられますし、損害賠償の対象にもなります。なんのメリットもないとおもうのですが、どうなのでしょうか。

なんでもっと、真実を、事実を、知りたいと思わないのでしょうか。自分勝手な思い込みを、自分勝手な理屈で、さも真実であるかのように表現して、満足しているのは頭がオカシイとしか思えません。数学の定理のようにすべてが演繹的に導きだされるということは現実社会の事象ではありえないはずなので、やはり現実に起きていることを現実のありのままの姿を事実を謙虚に正しく認識しようとする態度が、いたずらに付け焼刃的なロジックをふりまわすよりも、ずっと大事なのではないでしょうか。