なんで勉強しないといけないの?、と口にするのは、たいがい勉強のできない子です。勉強のできない子は、勉強が苦手な子ですから、だれだって苦手なことはできればやりたくないから、苦手の苦痛に耐えてまで勉強しつづけなければならないその意味を問いかけたくもなるのです。そして、いつしか、あんまり難しいこと勉強しても、意味がないのではないだろうか、将来やくにたたないのではなかろうか、と自答するようになる。やくにたたないこと、やってもムダでしょ、と。まあ、そんな感じに。

いっぽうで、勉強のできる子が、なぜ勉強するのだろうか、と疑問におもって悩んでしまう場合は、できない子がする思考とはかなり違っているような気がします。ものごころついたころから、あたりまえのように勉強して、あたりまえのように勉強ができて、それがあたりまえすぎて、なんで勉強するのかなんて、そんな根源的な意味なんて考えたこともなく、また考えようともしなかったのに、ふとしたキッカケに、自分がこれまで勉強してきたことや、そしてこれからも勉強していくであろうことの、その意味について熟慮するようになってしまい、そしてその答えが容易には導き出せないことに気がつき、悩み苦しみ、その結果として無気力になってしまい、すべての事柄からのがれたくなり、それで自分がこれまでコツコツと積み上げてきたものをすべてやめたくなってしまった。それが青木れいかさんなのかなと。今日の今日まであたりまえに普通だとおもって生きてきたのにふと「なんのために私はいま、生きてるのだろうか?」と考えこむようになってしまったのも、なんのために勉強しないといけないのか、の疑問から始まって、なんのために生きていかねばならないのか、に行き着いてしまった感じで。自分の存在がなんなのかさえ分からなくなってしまった。自分には生きる資格が、そして生きてる価値があるのだろうかと、ついにはそんなことまで考えるようになってしまい、追いつめられる。だから、なにもする気がしなくなり、なにをやってもムダだとおもうようになり、ぜんぶやめたくなってしまったのだろう。生きる気力すらもなくして、人間すらもやめたくなったことでしょう。あたりまえですが「生きる」というのは楽しいことばかりでなく、つらいことも苦しいことも悲しいこともあります。子供から大人になるにつれ、楽しいことよりも苦しいことのほうが増えていくのが普通です。それなのに、ではどうして、そうまでして人は自分は生きていかなければならないのだろうか、と。大人への階段をのぼりはじめた思春期まっただなかの中学生、青木れいかが、ふと、そんな疑問につまずいたのも、ある意味、大人になるための試練でもあり、不思議なことではないとおもいます。

とはいえ、とにかく自分がこれからどうすればいいのか、それが分からなければ、まえにはすすめませんから。自分で答えが導けないのであれば、だれかが導いてあげなくてはなりません。次回予告を見るかぎりでは、どうやら、お祖父様とおぼしき人物が青木さんを導いていたように思えました。お祖父様は「道」と揮毫されていましたよね。そうです、なにごとも「道」なのです。勉強、弓道、生徒会、プリキュア、それらはすべて「道」であり、それぞれがそれぞれの「悟り」という終着点につうじているはずです。「悟り」への道のりは遠くて、青木さんはまだまだ旅の途中なのです。「道」の途中は平坦な場所ばかりではありません、山あり谷ありで、ときには本当にゴールまでたどりつけるのだろうかと不安になることもあるでしょう。けれどもそこであきらめてしまっては、なにごとも成就しませんからね。そのさきに何が待っているのか分からないけれど、とにかく自分を信じて、精進することが大切です。たとえゴールできなかったとしても、途中まででも、根気よく精進できたのであれば、それは決してムダではなくて、かならずチカラになっているはずですから。ほんとうにやりたいことが見つからずに迷ってる人は、自分のやりたいことを見つけてから前に進む、ではなくて、そうではなくて、あいまいだけど今の自分のままで、そんなありのままの自分を認めてあげて、そして、いま自分がやってること、やるべきことをがんばる、そうしていくうちに、ほんとうに自分のやりたいことが分かってくる、というのが、あるべき姿なのではないでしょうか。おそらく、お祖父様は、孫娘に、そういった趣旨のことを伝えたのでは、と思いました。