幸せ、それは主観的で、個人的なもの。だからこそ「あなたにとってのハッピーって、なに?」みたいな質問も意味があるわけでして。幸せというモノに唯一無二の絶対的な答えなんて存在しない。というわけで、だれが何を幸せと思おうが勝手だけど、それをひとに押し付けないでほしいんだ。だって、幸せって人それぞれだから。ありがた迷惑なんだよアンタの幸福感は、なんてことは、よくあることだ。

マッチ売りの少女はバッドエンドだったのだろうか、という素朴な疑問がある。たしかに少女は死んだ。でも、その少女が不幸だったか幸福だったかなんて、誰が分かるだろうか。わかるよなんてほざくのは、おもいあがりもいいとこだ。人生を終えた人の、その人の最後の瞬間の価値観にほんの少しでも触れることなんて誰にもできやしないのだから。なのに、あの人は幸せだった、いや不幸だった、などと勝手に自分の価値観と照らし合わせ、憶測して、さも分かったような顔をする人、わりと世間には多いような気がする。

なんつーか、そこらへんがひっかかるというか、なんというか。星空さんの「ハッピー」もそんな感じで、自分の価値観のモノサシを絶対視する傾向があるんじゃなかろうかと。まあ、星空さんとて生粋のバカじゃないだろうから、いずれきっと、そこらへんでつまずく展開になるのかもしらんが。とにかく自分のハッピー感が、かならずしも他者のハッピー感と一致しないのは、明々白々の事実なのです。でも星空さんたちって、まだ中学生で、人生経験もまだそこそこだから、社会的な視点に欠ける面があったとしてもしかたがないことで。そこに成長の余地があると考えることもできそうです。そして、幸福感のおそるべき多様性、それを理解するようになれば、ハッピーの押しつけは、価値観の押し付けは、他者には迷惑な場合もよくあることなんだと分かってくれるようになるでしょうよ。

ところで、100歩ゆずって、仮に絶対的なハッピーエンドとバッドエンドの存在を認めたとして。たとえば物語の中で対立があったとして、その戦いに勝利した場合にハッピーエンドと定義し、敗北した場合をバッドエンドと定義しよう。この場合、登場人物の立場によってハッピーエンドともバッドエンドとも解釈できるわけでして。たとえば、三匹の子豚の話では、子豚の立場ならハッピーエンドだろうが、オオカミの立場だとバッドエンドだといえる。

あと、ふと思ったのですが、泣いた赤鬼のお話は、ハッピーエンドなんだろうか、それともバッドエンドなのだろうか?赤鬼は村の人たちと友達になれたけれど、その代償として青鬼という大切な友達を失っている。欲しいものを得るために、大切なものを失った、みたいな感じで。「何かを得るためには何かを捨てなきゃ」が口癖だった、あの人の顔がよみがえる。等価交換というか、ハッピーのイイトコどりはダメよ、みたいな感じで。どうなんだろうかコレは。そういえば真偽のほどは定かではないのですが、セイレーンはプリキュアになった代償として、本来の姿であるネコに戻れなくなった、という怖い説があるのだが。これも彼女にとってはハッピーだったのか、どうなのか。もしも猫時代のセイレーンに猫の彼氏がいたとしたら、もう彼とは結ばれないでしょうに。

まあ、なんだろな。結局、物語にはイロイロなパターンがないとダメなんでしょうね。ハッピーエンドだろうと、バッドエンドだろうと、はたまたそのどちらとも判断がつかないエンドだろうと。ようは、その物語から何を感じ考え学ぶか、なんだろうな。

スマイルプリキュアが今後どういう展開に進んでいくのか、まったく予想がつかないのですが。でも、スイートプリキュアのときのように、最後の最後には、ああ、そういうことか、と、納得のいくフィナーレでしめくくってくれると信じています。というか信じたい。

あ、あと、努力は必ずしも自分の望む結果には結びつかないだろうけれど、その努力した過程はムダではない、という考えには共感できます。たとえば必死に勉強したけれど大学受験には失敗した、としても、その必死に勉強したという事実は決してなくならないから。気合を入れて頑張れたという経験は、またなにか別のことにチャレンジするときの自信になるのではないだろうか。そう考えると真剣な努力はたとえ結果が伴わなかったとしても決してムダではないような気がする。それをハッピーと思えるか、どうか。そこは大事なトコかもしれない。

それにしても、ハッピーに関しては、どんなに頑張ってもムダという場合は、たしかにある。努力とハッピーが無関係な場合って、ありますね。たとえば宝くじ1枚だけ買ってそれが1等当選するなんてのは、努力などではなく運だろうし。つまり、よく当たりが出ると評判の売り場で買おうが、どこで買おうが、宝くじ1枚の1等当選の確率というか期待値は同じだろうから。努力は、かならずしも、ハッピーの必要条件ではないのです。