結局、このスイートプリキュアという物語は、ノイズ様が主役だった、というかテーマだったようだ。4人のプリキュアたちも、それぞれがそれぞれに、自分自身のノイズというか悲しみと向き合い、多かれ少なかれ苦悩しつつもそれを乗り越えて自信を取り戻してきたというのが序盤から中盤のおわりにかけて描かれ、そして次の段階として、自分の中のノイズという個人的なモノとの対峙から、この世のすべてのノイズの集合体という社会的なモノとの対峙へと、終盤は尺度を広げて描かれたのだ。これはそう、すべてはノイズ様との最終決戦への準備として、プリキュアたちは自分たちの悲しみの経験から自分自身の弱さと、しかし一方で悲しみや弱さを乗り越えられる強さとを、その両方を認識し、それがまたすべての人たちへの可能性をも信じられるようになったという。それがしいては不幸の具現であるノイズ様の救済すらをも信じられるようになるという結果に導いて、じっさい救済したんだ。

人は、生きているかぎり、悲しみや苦しみから完全には、のがれられない。ならば、その不幸を受け入れつつも、地道な努力や工夫によって良い方向にもっていこうとする生き方が大切なんだと。それを伝えたかったのがスイートプリキュアという物語だったのかなと。そんな印象でした。音吉とクレッシェンドトーンがどんなに頑張ってもノイズ様に勝利できなかったのは、不幸というモノから目をそらし、なかったことにしようとする意識や態度が原因だったのでしょうよ。いっぽうでプリキュアはノイズ様を、不幸を受け入れ、そのうえで前に進んでいきたいという気持ちになれたので、ああいう結果になったのでしょうね。そしてピーちゃんは復活した。

たしかにピーちゃんはノイズ様なのだけれど、ノイズ様というのはピーちゃんが、つまり人間の負の感情が暴走した姿なのだから、ピーちゃんが暴走せずにピーちゃんのままでいてくれれば、さほど害はないはずなのです。せいぜいたまに音吉にむけてパイプオルガンをおっことそうとするぐらいでしょう。とはいえ人間とは弱い生き物ですから。いつまたピーちゃんがノイズ様になるともかぎりません。ピーちゃんをノイズ様にさせないために必要なのが、人の愛であり、音楽なのでしょう。悲しいとき苦しいとき、音楽が支えてくれる。それは明るい曲だけではなく、暗く悲しい曲もまた。それらには作曲した人の思いも、その曲を演奏する人の思いもが込められているからなのでしょう。

生きていれば、楽しいことも、つらいことも。そのどちらも受け入れて、人は生きていくのだ。痛み、悲しみ、苦しみ、それらを消し去ることなんてできない。だから、それらとどう付き合って生きていくかを考える勇気を持たないといけない。ときには心が折れそうになることもあるだろうけれど、そんなときはとりあえず歌ってみる。折れそうになる勇気を支えてくれる希望こそが音楽だから。

それにしてもピーちゃんが復活してくれて安心しました。もし、あのままノイズ様が浄化されて終わりだったとしたら、それこそ悲しみや苦しみがなくなってしまったような感じで、すごく後味悪い印象でしたから。そうですよね、ノイズ様も、つまり不幸も不幸として、それはそれで受け入れて生きていくとプリキュアは宣言したのですから。やはりピーちゃん復活は必然で、そのピーちゃんの中には響と奏とエレンとアコの悲しみも入ってるわけですよね。悲しみは消えることはなく、けれどもその悲しみに押しつぶされそうにならず、悲しみは悲しみとして受け入れ、思い出のひとつとして心の片隅にそっと置いておけるようになれば良いのだと。響さんたちはピーちゃんを見るたびに、そう思うようになるんだろうなと。そうです、みんな心にピーちゃんを飼えるようになれればいいのです。

それにしても、それにしても、最後にピーちゃんがあらわれたとき、音吉は動揺を隠せなかったのに、プリキュアたちは嬉々としていたのが、なんともまあ好対照でして、やっぱ年寄りはダメで、若い子とくに思春期の女の子は良いなと思った。悩み苦しみながらも成長していける可能性をそこに見たような気がしたから。それでこそプリキュアなのかなと。